お茶の歴史-1《お茶のみ女子大学》

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はじめに お茶の歴史1 お茶の歴史2 お茶の品種 お茶の製法と種類 お茶の成分 お茶の効能・効果 お茶の育て方

お茶の歴史 1(古代)

先生
お茶を世界で初めて口にしたのは誰なのか? それは今から約5000年前、今日の漢方薬の基礎を築いたとされる中国の『神農帝(しんのうてい)』の伝説の中で語られておる。・・・神農帝は、人間が食べられる野草や樹木の葉はどんなものがあるのか、山野を駆け巡り自分で試食しながらテストしたんじゃが、1日に72もの毒にあたり大変苦しんだそうな。しかし、そのとき、茶の葉を噛んで解毒したということじゃ。これが世界で初めて人と茶の出会いとされておる。
生徒
ふ~ん、神農帝ってやることがワイルドね。顔が見てみたいわ。ワクワク♪
生徒
先生
これがその神農帝じゃ。
ワイルドすぎる・・・
生徒
先生
科学的な見地からも、この伝説まんざら嘘、偽りというわけでもないんじゃ。 それは、茶に含まれるカテキン類は植物の毒素に多いアルカロイドと結合しやすく、毒消しの性質があり、そのことを言い表していると思われるからなんじゃよ。 この茶の葉で毒を消したという伝説のことを『神農伝説』と言われておる。
生徒
信じるか信じないかはあなた次第です・・・か。
生徒
先生
都市伝説と勘違いしておるようじゃの。
先生
・・・ということで、最初は「薬」として飲まれていたお茶じゃが、味や香りの良さから、やがて世界に普及し、それぞれの国の風土や文化に合った形で発展していったのじゃよ。
生徒
日本ではいつからお茶が飲まれるようになったの?
生徒
先生
うむ、よい質問じゃ。

お茶の歴史 Ⅰ(奈良~鎌倉時代)

先生
日本では、少なくとも奈良時代にはお茶が飲まれていたと考えられておるんじゃが、当時のお茶は餅茶(へいちゃ)と呼ばれ、生葉を蒸して餅状に固めたもので、飲むときに必要な分だけ切り取って火であぶり、薬研で砕いて粉末にし、釜で煎じて飲んでいたらしいんじゃよ。ところが、これは匂いが強くて日本人にの好みには合わず、あまり普及しなかったそうじゃな。
生徒
先生
お茶が庶民に広まったのは、鎌倉時代に臨済宗の開祖、栄西(えいさい)が、中国・宋から、多くの経典とともに、茶の苗を日本へ持ち帰ったことがきっかけとなったんじゃ。
生徒
奈良時代のお茶は不評だったのに、どうして今度は流行ったのかな?
生徒
先生
おっと、なかなかいいところを突いてくるな。
先生
鎌倉時代には、奈良時代の餅茶のようにお茶を煮出して飲む方法から転じて、「抹茶法」と呼ばれる飲み方が主流になったんじゃ。「碾」という薬研や臼を使って茶を細かく砕き、沸騰した湯の中に入れてかき混ぜて飲んだらしいが、これがまた頭がシャキッとして、禅僧たちの間で「修行中に襲ってくる睡魔を抑え、精神が集中できる」ということで、禅宗の布教と共に広く普及したと言われておる。これはお茶に含まれるカフェインの効果だと思うが、君も授業中に眠くなったらお茶を飲むとよいかもしれんな。
生徒
なるほど、お茶は眠気覚ましとして、お寺で流行ったのね。メモメモ・・・
生徒
先生
うむ、まあそれだけの理由じゃなかろうがな・・・。
そして鎌倉末期になると、貴族や武士層にも茶の習慣が広まるのじゃ。

お茶の歴史 Ⅰ(鎌倉末期~室町時代)

先生
鎌倉末期に社交の場として「会所の茶」というのが流行ったらしいんじゃが、そこでは当時流行していた中国製の絵画や花瓶、香炉などを飾り、それを鑑賞しながらお茶を飲んだり、和歌や連歌などを詠んだりしていたそうじゃ。いわゆるセレブが集う「サロン」のようなものかのう。
生徒
先生
そして1320年頃、その「会所の茶」が「闘茶(とうちゃ)」というものに発展したんじゃ。闘茶とは、お茶を飲んでその産地を当てる遊びなんじゃが、これがまた武士層に超人気でな。南北朝の動乱期になると、闘茶はより遊興的になって、酒や食事を持ち込んだり賭け事が行われたりするようになったんじゃよ。いつの時代もギャンブル好きはおるもんじゃな。
生徒
お茶は侘び寂びの世界かと思ってたけど、違うんだな。
生徒
先生
まてまて、侘び寂びの精神が出てくるのはこれからじゃ。
先生
そのうち「闘茶」に熱中しすぎて身を滅ぼす武士が続出ししたため、室町幕府初代将軍、足利尊氏が「闘茶」を禁止したんじゃよ。そんな中登場したのが「侘び茶」の始祖といわれる村田珠光(むらたじゅこう)という僧侶なんじゃ。
生徒
ああ、村田のおじいちゃんね。
生徒
先生
お、おじいちゃんって・・・
先生
珠光は、茶と禅の精神の統一を主張し、いわゆる「四畳半の茶の湯」を完成させた人物で、それまでの茶会が唐物と呼ばれる中国製の高価な茶器を用いて行われていたのに対し、「茶は心の静けさ」という精神面を求めたんじゃな。
生徒
ふ~ん、茶室が四畳半なのはそのせいなのね。
生徒
先生
茶室が四畳半になったのは、足利義政造営の東山山荘(銀閣寺)の東求堂の書院、同仁斎の茶室の広さが四畳半であったということも影響したようじゃのう。
先生
この侘び茶の精神は、武野紹鴎(たけのじょうおう)に引き継がれ、茶の湯は、貴族趣味の遊び・制度化された儀礼といったものから、”わび”という精神を持った茶道へと発展していくことになる。やがて、それは、紹鴎の弟子であった千利休(せんのりきゅう)により大成されて、茶の湯は全盛期を迎える事となるんじゃよ。
生徒
せんのりきゅう?・・・なんか聞いたことあるな。
生徒
先生
千利休は小説や映画にもなっとるからのう。
日本茶の歴史上もっとも重要な人物と言ってもよかろう。

お茶の歴史 Ⅰ(安土桃山時代)

先生
千利休は武野紹鴎から茶の湯のを学んだ後、織田信長の茶頭(さどう)を務めたんじゃ。
生徒
茶頭って?
生徒
先生
茶頭とは、将軍家や諸大名に仕え、茶の湯の準備や座敷の飾りつけ、美術品の鑑定、購入などを担当する責任者のことじゃ。
先生
織田信長が明智光秀に討たれた後、利休は豊臣秀吉の茶頭として仕え、茶人としての地位を高めてゆくんじゃ。秀吉は1585年に御所で初めて天皇を招いた茶会を開き、以降、茶の湯は天皇、皇族にも取り入れら、利休は天下一の茶匠として認められたんじゃよ。
生徒
先生
利休が取り仕切った茶会でもっとも有名なのは、京都北野天満宮で行われた茶会なんじゃが、そこで展示されたのが「黄金の茶室」と言って、天井、壁、柱、障子の骨から茶道具まですべて黄金で作られていたんじゃ。
生徒
あら~ほんとキンキラキンね~。
生徒
先生
こんなところでお茶を飲んだら落ち着かんと思うがのう・・・。
これを作らせた秀吉は、茶の湯の文化を広めることと同時に、自分の権力を誇示したかったんじゃろうな。
先生
結局利休はこの4年後に秀吉に切腹を命ぜられ、70歳の生涯を閉じるのじゃが、侘び茶の精神はその後も脈々と受け注がれ、「三千家」により現代に伝えられておる。
生徒
なんだかお腹がすいてきたな・・・
生徒
先生
まだ食事の時間にはちと早い気がするが・・・
では今日の授業はこれくらいで終わりとしよう。

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