お茶の歴史-2《お茶のみ女子大学》
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お茶の歴史 2(江戸時代)
江戸幕府が開かれた後、茶の湯は幕府の儀礼に取り入れられ、武家社会に定着していくんじゃが、その中で多くの大名に茶の湯を指南したのが、千利休の弟子古田織部という人物で、利休の死後は、その地位を継承するかのように天下の茶人となり、徳川家康や秀忠にも茶法を伝授したのじゃよ。
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織部焼って古田さんが考案者なのね。
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ん?なんで知っておるのじゃ?!
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ウィキペディアに書いてあるよ。
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あっ、そう。
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この頃からお茶の生産は盛んになって、問屋、仲買、小売商などの茶流通業も発達し、全国各地に流通の拠点である「茶町」が誕生したんじゃよ。ちなみに日本初の茶店は、享保20年(1735年)、売茶翁(ばいさおう)という人物が京都の鴨川の橋のたもとにオープンした「通仙亭」という店だそうじゃ。
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ふ~ん、この人が喫茶店のマスター?
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どうだ、渋いじゃろ。お茶だけに。
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・・・こ、この頃はみんなどんなお茶を飲んでいたの?
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うむ、よい質問じゃ。
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この頃はすでに釜入り製法や碾茶製法(抹茶)が誕生していたんじゃが、1738年に永谷宗円が現在の日本緑茶の主流となっている「煎茶」の製法を考案し、それまで庶民が飲んでいた色が赤黒く味も粗末な「煎じ茶(乾燥させた茶葉を煮出したもの)」と違い、お茶の色は鮮やかな緑色になり、味と香りも格段に良くなったんじゃ。宗円は完成した茶を携えて江戸に赴き、茶商の山本嘉兵衛に販売を託したところ、たちまち評判となり、以後「宇治の煎茶」は日本を代表する茶となる。
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永谷宗円ってお茶づけの永谷園と何か関係あるのかな?
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宗円の子孫の一人が「永谷園」の創業者で、山本嘉兵衛は海苔とお茶で有名な「山本山」の創業者なんじゃ。
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へ~っ、どちらも歴史があるのね~。
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お茶づけが食べたくなったのう・・・
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天保6年(1835年)には、山本山6代目山本嘉兵衛(徳翁)が「玉露」の製法を開発し、現在も「玉露」は高級茶として知られておる。
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せっかくおいしいお茶ができたんだから、海外にバンバン売ればいいのに。
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うむ、じゃが江戸時代、日本は鎖国してたからのう・・・。お茶の輸出が始まったのは、ペリーの黒船来航のあと、「日米修好通商条約(1858年)」が結ばれてからのことじゃ。
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お茶の歴史 Ⅱ(明治時代)
明治時代になるとお茶の輸出はなんと全体の20%。生糸(60%)の次に大きな割合を占めるようになったんじゃ。20%の輸出というと、現在では自動車、オートバイ、船などの輸送用機器くらいの量かのう。茶葉の量は約2万トンくらいで、輸出先は主にアメリカだったそうじゃ。
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日本茶はアメリカ人の口に合ったのかしら?
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いや、当時はお茶をお湯に入れて煮立たせ、ミルクと砂糖を入れて飲んでいたそうじゃ。コーヒーや紅茶と同じ感覚だったのかもしれんのう。
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さて、ここで問題じゃ。お茶の輸出と深い関係があり、欧米で日本ブームのきっかけとなったあるものとはなんだ?
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・・・う~ん、わかんな~い!
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答えは、これじゃ!
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おお、レトロだね~!!
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これは「蘭字」(らんじ)と言ってな、明治初期から昭和の初めにかけて日本茶を輸出する際に茶箱に貼られていたラベルで、当時の浮世絵職人によって作成され、そのモダンなデザインは、日本のグラフィックデザインの先駆けと言えるものなんじゃよ。
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そして明治41年(1908年)、茶業界にとって革命的ともいえることが起こったんじゃ。
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えーっ、なになに?
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やぶきたは収穫量、品質、耐寒性にすぐれた非常に優秀なお茶の品種で、現在日本各地に広がる茶園の75%はこの「やぶきた茶」なんじゃ。彦三郎さんに感謝せんといかんな。お茶の品種についてはまた別の授業で教えるとしよう。
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お茶の歴史 Ⅱ(大正~昭和初期)
明治後期からお茶の輸出に陰りが見え始めたんじゃが、その理由は、インド・セイロンの紅茶がアメリカで人気になったのと、日本の輸出品の主力が繊維製品などに移行したからなんじゃ。それでも第一次世界大戦時に好転し、大正6年(1917年)には輸出量が約3万トンとピークを迎えたんじゃが、お茶の品質低下などもあり、それ以降の輸出量は減少の一途をたどるのじゃよ。
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なかなかうまくいかないんだな。
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人生いい時も悪い時もある。諦めたらいかん!ちょうどそのころの記録映像があるので見るがよい。お茶の製造工程から、輸出するために船に積むまでの様子が活き活きと記録されておるぞ。
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お茶の歴史 Ⅱ(昭和~平成時代)
戦後、日本では食糧生産が優先されて、お茶の生産量は少し落ちたんじゃが、昭和25年(1950年)頃から徐々に増え始め、昭和29年(1954年)には輸出量も1万7000トン台まで回復したのじゃ。
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1960年代日本は高度成長期に入り、お茶の国内の消費量増加に伴い、いよいよお茶を海外から輸入するようにもなったんじゃ。昭和50年(1975年)にはお茶の生産量が過去最高の10万トン以上を記録し、お茶業界は大きく飛躍したのじゃよ。
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いい時も悪い時もある・・・か。
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その通り!人生、山あり谷ありじゃ。
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平成になってから、ペットボトル茶が発売され、以降お茶を飲むスタイルが様変わりした。今の若いもんは急須で淹れたお茶を飲む機会が少なくなったと思うが、どうかな?
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そうね。ペットボトルはいつでもどこでも飲めるし・・・
だいたい急須でお茶を淹れるなんてめんどくさいわよ。 |
まあ、わからんでもないがな・・・しかしたまには急須で淹れたお茶もいいもんじゃて。あとでワシがおいしいお茶を淹れてあげよう。
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これでお茶の歴史についての授業は終わりじゃが、最後に何か質問はないかな?
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先生はこの先、日本のお茶はどうなっていくと思う?
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うむ、これからお茶は健康飲料としての価値が高まり、世界的にも益々需要が増えていくじゃろう。ただ、日本のお茶農家は高齢化が進み、このままでは日本でお茶が生産されなくなる日が来るかもしれん。そうならないように今のうちから考えておく必要があると思うんじゃが・・・。これはなかなか悩ましい問題じゃ。ワシは日本の力を信じておるがの。
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お茶の歴史年表(☆海外のできごと)
約 5000年前 ☆神農帝、初めて茶を飲む(中国) 紀元前59 ☆世界最古のお茶の記録(中国) 760頃 ☆陸羽、茶の専門書「茶経」を著す(中国) |
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平安 | 815(弘仁6) 永忠、嵯峨天皇に茶を献上 |
鎌倉 |
1207(永元元) 明恵、栄西から贈られた茶の種を高山寺(京都市)にまく 1211(建暦元) 栄西「喫茶養生記」を著す 1214(建保2) 栄西、将軍源実朝に茶と「喫茶養生記」を献上 1241(仁治2) 聖一国師、中国から帰国。後に駿河に茶を伝えたとされる |
室町 |
1336(建武3) 足利尊氏「建武式目」で闘茶を禁止 15世紀後半 村田珠光、わび茶を始める 16世紀中頃 武野紹鴎、茶の湯の原型を整える |
安土桃山 |
1580頃 織田信長の「茶の湯政道」 1587(天正 15) 北野大茶の湯 1591(天正 19) 千利休が切腹 16世紀末~17世紀初 古田織部、将軍や大名に茶の湯を教授 |
江戸 |
1633(寛永 10)頃 お茶壺道中始まる 1654(承応3) 隠元、中国から来日、煎茶を伝える 1662 ☆イギリス王宮廷で紅茶ブーム始まる 1735(享保 20) 売茶翁、京都でお茶売り業始める 1738(元文3) 永谷宗円、蒸し煎茶を考案 1773 ☆ボストン茶会事件 1835(天保6) 山本嘉兵衛、玉露を考案 1837 ☆イギリス、インドで茶の栽培を開始 1839~42 ☆アヘン戦争 1856(安政3) 大浦慶、最初の製茶輸出 1858(安政5) 日米修好通商条約 |
明治 |
1869(明治2) 牧之原台地の開拓始まる 1874(明治7) 日本政府が国産紅茶製造を奨励 1896(明治 29) 高林謙三、粗揉機を発明 1899(明治 32) 清水港開港 1906(明治 39) 岡倉天心『茶の本』刊行 1908(明治 41) 杉山彦三郎、「やぶきた」を選抜 |
大正 | 1924(大正 14) 三浦政太郎、緑茶のビタミンCの論文 |
昭和 |
1927(昭和2) 「ちゃっきり節」制作 1972(昭和 47) 防霜ファンが実用化 1975(昭和 50) 荒茶生産が戦後最大の 105,500 トン 1982(昭和 57) 緑茶缶ドリンク、駅弁用として初めて市販 |
平成 |
1990(平成2) 緑茶ペットボトル、初めて市販 1999(平成 11) 日本茶インストラクター制度が発足 |